糖尿病専門病院開院35年の歴史
理事長 佐々木嵩医師 今年は当病院が開設35年となり、一つの節目と考え振り返ってみました。 まずはじめに糖尿病専門病院として取り組む心構えと考え方を知って頂くという程度でご覧下さい。もう一つ付け加えると、今年は私の糖尿病医師50年目に当たります。よく飽きないで糖尿病に付き合ってきたもので、仕事というより糖尿病の奥深さにのめりこんで来たという感じです。 35年前に糖尿病のみの専門病院としてスタートすることは大変な決断を要しました。何故なら当時単一疾患の病院は前例がありませんでした。糖尿病専門病院として伸びてきたのは私の実力ではなく、次の3つの偶然とも言える幸運があったためと思います。 一つは昭和57年に当時大関だった隆の里関との出会いです。昭和56年に用もなく立ち寄った書店で「糖尿病に勝った」というタイトルの本をふと見つけました。著者は大関隆の里関とあり一冊買ってみました。この本のお蔭で後ほど話す数々の交流がありました。当時、多くの人がこの病院は隆の里関の病院と思っていたようです。 二つ目は平成6年地下鉄東豊線が伸びてきて美園駅ができたことです。 お蔭で遠方からの患者さんも訪れるようになり、通院が楽になりました。 三つ目は糖尿病診療医師が3人になったことです。これで患者さんの受け入れ体制が充分となり受診時間も短縮されました。 糖尿病専門病院の診療体制と舵取りをいかにするかと考え国内、国外の糖尿病診療で有名な病院を数か所で1,2週間の研修をしました。ジョスリン糖尿病センター(平成1年)、ポートランド糖尿病センター(平成6年)、サンフランシスコ糖尿病センター(平成15年)、勿論日本の糖尿病病院も訪れています。 ジョスリン糖尿病センターで教えられた糖尿病の名言をレリーフとして玄関壁に掲げています。その文面は当時少し首をかしげる所がありましたが、今は全く同感です。 さて、糖尿病の診療はどのように進められているかをお話しましょう。 糖尿病は治る病気ではありませんから、今の病状これからの病状について考えていかねばなりません。しかしひとり一人の患者さんの真の糖尿病の姿が見えてきません。なぜならその患者さんは軽症、単純な糖尿病であったとしても生活習慣、社会背景、生活環境によって(悪)影響をうけ病状が修飾されているからです。それは入院生活で明らかに証明されます。「あなたの糖尿病は意外と軽く治療で苦労するところはありませんね」、「悪くなったのはあなたの生活の過ごし方、食べ方によるものでした」となります。 それではこれらの仮定があったとすると、糖尿病専門病院はどう対応するべきかを考えねばなりません。これについて試行錯誤でやっております。しかしこれからは高齢化が進み病院外の施設、家庭における看護、介助、管理が必要とされてきます。つまりその時の社会事情に応じて対応しなければなりません。 次に職員の対応はどうでしょうか。患者さんに対しては笑顔で,親切、丁寧にはどこの職場でも言われていることです。それに加えて次の心構えを奨励しています。 3つの心--------「目配り」、「気配り」、「こころ配り」 3つの気構え---「やる気」、「こん気」、「ほん気」 3つのS---------「Steady」,「Smart」、「Smile」 私が日頃の診療で心掛けていることは患者さんの病状の特徴を一つでも多くつかむことです。そのためには患者さんの社会背景、生活背景、生活習慣、食生活など生活を知ることが必要です。 堅い話はこの位にして糖尿病専門病院として取り組んでいる実情、教育活動、啓蒙運動、LET’
s歩こう会、にれの木会についてお話します。 ●糖尿病患者会「にれの木会」の歩み 糖尿病専門病院となるには糖尿病患者会を併設することが必要条件となります。病院開設と同時に立ち上げましたが、幹事が整うのに手間取り昭和57年4月に第1回総会を開きました。患者会の名称は当時帯広郊外のある丘に大きな楡の木一本だけが立っている写真をみつけ、その下で患者さんが皆で憩うという意味で「にれの木会」として日本糖尿病協会に申請しました。初代会長に葛西利定さんが選出され順調にスタートしました。葛西さんは大の温泉好きな方で春秋に一泊温泉旅行を恒例としました。アルコールと土地名物料理で、最後は宴会場で持参したテープレコーダーの曲に合わせてみんなで食後の運動療法として盆踊りするのが恒例となっていました。 「にれの木会」にはパークゴルフ愛好者の集まりがあり月1度の例会をもっています。私は参加していませんが院長杯を寄贈していますから大会の時に使われているのでしょう。 葛西会長は平成18年に心筋梗塞を患い亡くなられました。数多くの懐かしい写真を残してくださり感謝しております。 二代目会長に渡辺信善さんが選出され、会員皆さんの声がゆき渡るようにと「にれの木会」会報を発行されました。平成19年の第1号から平成28年26号まで続いており、年々内容が充実し会員皆さんの過去、現在、未来の声が届けられ、皆んなが楽しみにしています。終始会報に力を入れて継続して下さった渡辺会長のご苦労の賜物でしたが、ご高齢を理由に退任されることになりました。 28年度春の総会で新しく末光正卓さんに会長がバトンタッチされました。恐らく会報は継続して頂けるものと思います。私も糖尿病診療50年の中では北大第2内科「ポプラ会」の経験もありなんらかのお手伝いできると思います。 ●ウオーキング 糖尿病教室の運動療法のお話は昔から歩く運動の要領と効果について話してきました。その理由は体内に貯まるカロリーを使い切ろうとするもので、エクササイズ・ウオーキングと言っていました。それを具体的にするやり方として「300―30−3−3−3」を提案していました。理論と実践を教えるということで、糖尿病の正しい歩き方、美しい歩き方を実演し指導してきました。 ●糖尿病講演会 糖尿病の患者教育は医療者がお話しするのが一般的ですが、患者さんが患者さんにしゃべるのも教育効果が上がるものです。 そこで糖尿病になっても現職で療養しながら仕事に活躍している人、ご自分の体験談を本に出している人を招いて講演してもらうことを企画しました。この講演会は患者さんは勿論その家族(親族、その子供達)にも糖尿病を知ってもらう、予防してもらうことを目的に教育と啓蒙の講演会としました。札幌広報誌、北海道新聞、保険所に働きかけました。講師のトップバッターは昭和57年の大関隆の里関でした。大変好評で次の方々をお呼びしました。NHK料理講師城戸崎愛さん、医事評論家水野肇先生、漫画家富永一郎さん、AERA編集長鴨志田恵一さん、元東京女子医大教授平田幸正先生など15人をお招きしました。 しかし諸般の事情から15年で終了となりました ●元横綱 隆の里関との交流 開院当初はアメリカのジョスリン先生が述べるように、糖尿病専門病院は患者教育を徹底しなければいけないと考えました。その教育の一手段として糖尿病図書室を設けるために患者向けの糖尿病の本を数多く集めました。それに合わせて2週間の糖尿病教育入院をとり入れました。 当時三越デパートの東隣の丸善書店になにげなく立ち寄った時に、たまたま隆の里関が書いた“糖尿病に勝った”の本と出会いました。かっては“おしん横綱”と言われただけに頑張りと辛抱の糖尿病人生に感動したものでした。 この人の体験談を多くの患者に語ってもらいたいと手紙を数回書き昭和57年正月明けに了解の返事が届きました。同年8月4日の札幌場所で来札した時に初めて病院を訪れ、「糖尿病に勝った」講演会が実現しました。 病院3階の部屋で自己血糖測定のやり方を説明し是非実行するようにと血糖測定器を一個贈呈しました。 この年の名古屋場所で千代の富士を倒して横綱になりました。血糖測定を絶えずおこない、安心して相撲をした結果だったと思っています。何故なら以前は土俵に上がっても低血糖になっていたことが何回もあったと言っていました。取直しがあるとほぼ低血糖になるそうです。 昭和59年3月に日本航空のスチュワーデス典子さんと結婚されることとなり招待状をいただき出席しました。出席者は1200名位いたと思います。 現役を退いてからも講演会に登場してもらい、当院30周年記念パーティーの時は乾杯と挨拶をされました。出席された患者皆さんはその時の雰囲気がまだ頭に残っていることと思います。フランス料理フルコース(ただしカロリー制限)で実に楽しい会でした。 ところがその年の九州場所で突然に気管支喘息の重積発作で亡くなられ悲しい思いで過ごしました。 死亡数ヶ月後に、おかみさんとご長男が突然に来札され、鳴戸部屋を閉じるにあたり記念品を贈呈したいという申し出がありました。歴代の横綱手形(実物)をまとめたもので、日本相撲協会で7枚しか作成していないという宝物だそうです。食堂(2F)に展示しているのでご覧ください。 元横綱は19歳で糖尿病を発症しご自分では1型だと思っていると話していましたが、病状経過からみて私は2型だと考えています。当時インスリンは1日100単位前後注射していました。
●医事評論家
水野肇氏との交流 水野先生とはこれまでに面識はなく“名医ここにあり”の本を執筆するための取材で北海道医師会を訪れました。先生は糖尿病をもっているので、その名医が札幌に居るかどうかを医師会に問い合わせ、当病院が推薦されて訪問を受けました。果たして私が名医に値するのか否かはわかりませんが、私の診療理念をお話ししました。それが水野先生の考えと一致したというか波長が合ったのか数ヶ月後本格的に取材の申し込みを受けました。 本当にこの世の中でびっくりすることがあるといいますが私共としても驚きました。 その後今度は私の方から水野先生にお願いして講演会を催すこととなりました。その時の講演会ポスターが別パネルで展示しています。 その後先生の執筆された本には時々当病院が登場することになりました。 尚、この度の展示について感想アンテートをお書きくださった方に抽選のうえ30名様に水野肇先生の単行本を差し上げます。 ●“Let’s
歩こう会”の歩み “Let’s
歩こう会”は平成13年に世話人代表として青塚和春さんと4名の世話人で立ち上げました。幹事皆さん歩き愛好家で歩くコースの選定から当日の準備に、ボランティアとしてお世話して下さいました。 この場を借りてお礼申し上げます。 春と秋の年2回の歩こう会は16年続きました。第1回は真駒内公園を出発地点とし、豊平川沿いを北上し幌平橋近辺で解散したと思います。9月秋晴れの爽快な気分となり大成功でした。歩こう会は3kmコースと6kmコースを申し込んでもらい多くの場所を歩き回りました。平岡公園、開拓記念館、南郷サイクリング・ロード、円山公園、中島公園、真駒内公園、さけ科学館近辺など、歩いた後の達成感と汗をかいての気分は普通の生活で体験することはないでしょう。 回を重ねる毎に常連が増えお互いに糖尿病の話や自分のウオーキング論に花を咲かせていました。 5回連続参加者には、病院から3回綴りの病院お食事券を差し上げています。歩くことよりおしゃべりに熱中しているグループは段々とみんなより遅れ最後尾になるのが毎年の恒例となっています。 コース出発前のラジオ体操の次に参加者全員の写真を撮りますが、一枚一枚の写真を丁寧に見ると常連の立っている位置が毎年決まっていることがわかりました。面白い習性がありますね。 代表幹事の青塚さんは小樽に転居することになり、幹事を辞任され代わりに久保洋一さんが世話人代表となっています。是非皆さん一度参加してみてください。歩き方によっては血糖値が高くなるという経験もあますよ。 糖尿病専門病院であるからには何か研究し、それなりの成果を上げ発表しなければなりません。この学会発表者は医師ばかりでなく、全職員も前向きの姿勢でやってもらうことにしています。 演題名を一つずつ読むと面白いとか、ユニークだとか、新しい知識となるテーマがいくつもあると思います。なぜなら周囲の反響があって新聞社や雑誌社からそのテーマについて問い合わせ、取材の申し込みをよく受けました。発表者も鼻を高くした気分になったでしょう。 学会発表した職員は一段と考え方に幅ができて、それぞれの業務に反映されています。丁度山登りと同じで山頂に着くまでは辛いけれど登った後の爽快感を味わうのと同じようなものです。 私の研究テーマの歴史を話しますと、この35年間前半は糖尿病患者の教育のやり方について調べてきました。このテーマの最後の研究として札幌と姉妹都市ポートランド市との教育効果の差について日米で調べ、世界糖尿病学会で発表してきました。丁度これを契機として研究テーマを変え、35年間後半からHbA1cはどのように血糖値を反映しているかについて調べることにしました。ですから皆さんの自己血糖測定値をたくさん見せてもらうといかに治療していくかの作戦がたて易くなります。しかしHbA1cと血糖値の関係は複雑でまだ結論が出されていません。いまはっきり言えることはHbA1cは飲食物の取る量だけを反映しているのではないということです。もう一つは、HbA1c値は血糖コントロールの良い時と悪い時で血糖値が異なります。 |