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新年明けましておめでとうございます

2018.1.12

今年はこれ迄の生活を一つ二つ直して、少しでも良いヘモグロビンA1cを維持しましょう。

  〜日本の糖尿病の幕開け〜

日本の最古の医書として残されているものは丹波康頼の「医心方」全三十巻(西暦 982年)があります。その中で「消渇(しようかつ)」の症状が数多く列挙されています。それが今の糖尿病の症状に似ていることで、消渇は症状だけの判断で糖尿病と考えられています。

中国ではもっと早く西暦200年頃に多飲、多尿、冷感、浮腫(むくみ)をきたす病気を「消渇」と記載しています。また西暦752年中国の「外台秘要法」に消渇では尿は甘いと書かれています。従って奈良、平安時代では糖尿病に相当する病気の存在は知られていました。しかし消渇の症状に相当する患者の記録は残されていません。当時の社会は貧富の差が大きくて、貧しい庶民には糖尿病は起こりようはなかったでしょう。さらに病状を詳しく記録しての残す風習もありません。当時の病気は疫病が大半で、消渇は得体のしれない厄神または祟り(たたり)と考えられ、祈禱師による読経とお祓い(おはらい)が治療として行われていました。

当時の政治を司る太政大臣藤原道長は紫式部作「源氏物語」の主人公光源氏のモデル」とされています。道長の病気は51歳の頃から消渇の症状が起こり今の重症糖尿病患者の症状(合併症)を持ち合わせており、晩年は背中の腫れ物(おでき)と眼底出血が広がり61歳(西暦1026年)敗血症と尿毒症で亡くなったと推定されています。道長は政略的に昇格し、太政大臣関白となり娘3人を一条、三条、後一条の三天皇の中宮(奥方)として差し出しています。この頃の気持ちを「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」と祝宴で詠まれています。道長の家系には糖尿病患者が4名います。叔父の「伊伊」、兄の「道隆」とその子「伊周」は消渇の症状で悩まされていたと書かれています。

はたして道長の娘3人に消渇があったか否かは、皇室に入るとベールに閉ざされて分からないままになります。

平安時代の貴族の食生活は主食は米で、主菜は魚、鳥で牛や豚は食べません。副菜は野菜、海藻類、果実です。砂糖はないので甘葛、蜂蜜を調味に用いました。食事は一日2食(朝10時、夕方4時)、ただし間食、夜食は摂っていました。宴席が多く副菜は10数種類つき、濁酒(どぶろく)を34日飲み続け舞踊や歌で明け暮れました。一方衣服は束帯に直衣は長く、踊る動作も限られています。平常は運動らしいものはありません。従ってこのような生活では当然糖尿病になります。

道長の死後から間もなくして鎌倉、室町時代に引き継がれますが、消渇を患った記録はありません。確証はありませんが一説では織田信長、徳川家康は消渇の症状があったと聞きます。

 

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