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ある眼科医の独り言   

2018.10.12  

眼というのは(見えるというのは)どのくらい重要なのでしょう?耳というのは(聞こえるというのは)どのくらい重要なのでしょう?よく耳が不自由になるより目が不自由になる方がつらいという声を聞きます。確かに学童期(小学生)以降においては眼からの情報が7〜8割を占めると言われます。しかしながらそれ以前(小学校に上がる前)では逆に耳からの情報が大部分と言われます。例えば生まれたての赤ちゃんの耳が不自由だったとしましょう。するとどうなるかというと、お母さんとコミュニケーションがとれなく、さらに言葉を覚えることができなくなってしまい、その結果学習障害が起こってしまいます。仮に目が不自由だったとしても最低限お母さんとのコミュニケーションが取れるのでその部分での学習の遅れは起きにくいと言われます。もちろん中途失明においては不自由この上ない生活になるでしょう。例えば、「目で食べる」という言葉がありますが、料理には彩り・盛り付けがというものがあり、きれいに盛り付けられた料理はそれだけでおいしそうに感じられます。今時だとインスタ映えっていうところでしょうか。もちろん汚く見える料理は食べる気さえも失せてしまいます。これが香りがよいものとなると味に直結するので意味合いが違ってしまいます。やはり「目で食べる」っていう言葉は眼で見るということだけではなく、眼の機能を最大限に表した言葉かもしれません。

 では手や足が不自由になってしまった場合、或いはその他あらゆる部分を考えてみるとどうでしょう。ここまでなんか眼が体の中で一番重要のような言い方をしてきてしまいましたが、決してここは大丈夫というところは体の中にはないんだなあと思います。単純な話鼻・口・耳その他どの機能でも欠けてしまうと不自由でたまらないと想像できるからです。すなわち、目と耳とか手だとか足と比べることが無理があるような気がします。

医師 永坂嘉章

 

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